東のエデンのなにがすごいのか 解説と感想

「オタク」より「ニート」なんかは「ただ社会にどう出るかの出し惜しみをしているだけなんだ、能力がある故に引きこもっている」という人も少なくはないだろう。いや多いはずだ。
普通、人は必ずやって来る社会への仲間入りの機会へ、勇気を出して逃げ出さずに対面するものである。それが出来ないのであればやはりどこかに欠陥はあるのかもしれない。しかし欠陥があっても、なんとか漕ぎ着けて頑張れれば、波はそれほど高くはないはずなのだ。しかし「ニート」はたぶん豊かな想像力から「会社ってこうだ」とか「社会ってこうだ」とか、そういうイメージが先行してしまっているのではないだろうか。恐れ自体が豊かになってしまっているんじゃなかろうか。”イメージからの恐れ”というか。そのおかげで実社会に出向く機会を逃してしまっているだけであれば、彼らをニートというはっきりしないジャンルでくくってしまうのはどうもいけない気がする。(漫画の見すぎで会社ってこういうものなんだろ?と思い込んでいる可能性はないか? 植木等の映画でも見るといい)
社会というのはそんなに甘くはないが、それほど恐れるものでもないのに、すごい悲劇やすごい嫌がらせやなにかが待っていると思っているのだろうか。そんなこと、ないない。もし、あったとしても、逃げて、別のところに行けばいいだけなのだから。
コミュニケーションが苦手だったら、「コミュニケーションがしたいのにできない」のか「コミュニケーション自体をしたくない」のかを見極めるべきだ。「コミュニケーションがしたいのにできない」のであれば出会いが重要になるだろう。いい先輩や同僚や客やライバルと出会えるまで求め続けることだ。対して、「コミュニケーション自体をしたくない」のであれば病院に行ったほうがいい。バカにしているわけではない。病院でわかることも多いのだ。精神病とまで行かなくても何かしら気をつけると生活が円滑に行ったりする。その方法を病院が教えてくれる場合もある。私も若いときに精神科に言ってみたことがあるが、親身に話してくれた女医先生にもらった言葉は今でも胸に響く。自分が病気ではないとわかるだけでも得られることは大きい。
そして「東のエデン」にもどれば、劇中に出てくるあのニートたちはいったいどんな理由でニートになっているのだろうか。一言では言えないほど、さまざまな理由があるだろう。たとえ聞くに堪えないものだとしても多様であることは間違いない。

そう、ニートたちも束になれれば「なにか有用なことができないわけではない」と、このアニメは訴えている。そしてニートたちは自主的に束になるなんてことはできないから、誰かバンド(結束)するリーダー的存在が必要で、それが滝沢という主人公に当てられた役割なんだと思う。
つまり、滝沢は実は主人公ではなく、ニートという主眼から作られた、副産物的な主人公と言えるだろう。

はっきりいって、森見とかその仲間はストーリーテラーかエキストラでしかない。セレソンゲームは舞台装置のひとつだが、あの「携帯電話」はファンタジーによくある魔法が何回使えるか、なんていう云わばマジックポイントであって、魔法を現代風に置き換えたものにすぎない。なにも目新しい構造はない。置き換えのセンスが素晴らしくて「ああこういうもんがあったらな」とリアルに想像させるこの作品の力はすごい。

ニートの群集は脇役だったが、実は物語の中心になくてはならない存在である。そのことは観ている間、忘れてはいけないことなのだが、あまり気に留めることができない。できればニートのスゴさみたいなものをもっと描いてほしかった。
反対にあのコンピューターおたくの板津はもはやニートではない。自分で引きこもりを決断できるニートはいない。ニートは「どうしようもなく」という言葉がどんな会話にも前置詞についてくるほど、哀れでなければならないものだ。「どうしようもなく引きこもっている」と。板津は立派すぎる。

簡単に私見をまとめてしまおう。
「ニートたちを無駄にせず活用できるか」が主たるテーマと言え「集合知」がひとつの答えとして打ち出されている、というのがこの物語への私なりの捉え方だ。
一見、多彩な飾りからでは見えにくいものだが、単なるアニメとは一線を画しているところがあるとすれば、こんなことだろう。私はこの捉え方が物語の本質とは違っていたとしても、とても重要だと思っている。なぜなら、ニートを救うのではなく、ニートに救われていることが、現社会なのかもしれないからだ。

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