Marvel「パニッシャー」ドラマ版の解説から世界の男女差別を考える。NETFLIX

2017 アメリカ/TV番組・ドラマ
出演:ジョン・バーンサル、ベン・バーンズ、アンバー・ローズ・レヴァ
原作・制作:スティーヴ・ライトフット Steve Lightfoot(ハンニバルシリーズも制作)

https://www.netflix.com/jp/title/80117498
元海兵隊員の男フランク・キャッスルは、大切な家族を殺した犯罪者たちへの復讐を果たして行く。
だが気づいた時には、大きな軍の陰謀に男自身が巻き込まれていくのだった。

「パニッシャー (The Punisher) 」というタイトル通り、処刑野郎の物語なんだが、元々は処刑をやっていて、それが元でか家族を殺されてしまって、悲しみと怒りで復習をする、という平たく言ってしまえばそれほど複雑ではないストーリーだ。「パニッシャー」と聞くと、1989年に映画になったドルフ・ラングレン主演の「パニッシャー」のことを思い出す人もいるだろう。私なんかの世代ではドルフ・ラングレンの名は知らなくても、レンタルビデオ屋で見かけて手に取ったという人も多いはず。黒い皮コートで長身の男がたたずみ、なにやら殺戮を繰り広げてくれそうな予感満載のパッケージなんだよね。いまから考えるとオーストラリア制作なので、「マッドマックス サンダードーム」のバイオレンスな世界をクライムファイトで塗り替えようとする対抗意識もあっただろう。

話は現代に戻って、NETFLIXで配信されているパニッシャーは2017年に公開されたドラマ版だ。「デアデビル」のスピンオフ作品として作られたので「デアデビル」を見た人で「パニッシャー」を見てない人は見てみるといい作品だ。「デアデビル」での新聞記者のカレン・ペイジが「パニッシャー」でも重要な役を担う。カレン・ペイジを演じたデボラ・アン・ウォールは一石二鳥を地でいったわけだ。そうきたら「ザ・ディフェンダーズ」もみないといけなくなるが、まだ観てないので、いつかまとめよう。

そう、本題に入らなければならない。主人公のフランク・キャッスルは、このスピンオフ作品においては元軍人で、家族を殺されてしまっていて、その元凶であるビリー・ルッソとの対決、というストーリーが軸で、ドラマなんでそこをじわりじわりと進んでいくのだ。なのでドラマ版パニッシャーのストーリーについてはそれほど語ることはない。書いておきたいのは昨今言われている男女差別についてだ。パニッシャーでは男女差別どころか殺戮が繰り広げられるわけで、差別なんて話はくそみそってところだろう。そこはすっ飛ばしても、男女差別ってなんだろ、とこのドラマを見ているときに思ったので、そのことだけは忘れてしまう前に書いておきたいと思った。
そもそもの話になるが、男女差別ってなんだか私自身がわかってない。特に日本の男女差別については「遅れている」とか「理解がない」とか聞く。オリンピックの組織委員会の長であった森喜朗も叩かれた。元電通のクリエイティブディレクター(だせぇ肩書)の佐々木宏も辞任まで追い込まれた。こういう年寄りが失言する傾向はみられて、若い人が差別をするというのは少なく感じる。おそらく、時代に合わせた生き方を変更できなくなっていく反射神経が衰えた世代が取りざたされているわけだろう。この衰えた世代がいなくなればやがては言われなくなるような問題かもしれない。しかしそれまでには3,40年はかかるだろう。なので啓発していかなければすぐにはよくならないのはわかる。だが、男女で差別しない、と言うだけでもけっこう複雑なのだ。

パニッシャーでは、元軍人の主人公が、軍での経験を活かしつつ悩む姿が描かれる。とてもマッチョな「男」の世界だ。男女差別とかの言葉の余地もない世界である。「アメリカとかって、日本より男女差別なんかの話は進んでるんじゃないの?」「それでもあえてこういうドラマが作られるんだから、男女差別ってもっと違う話なの?」とかと疑問が浮かんでくるのは私だけだろうか。NETFLIXなんかのラインナップを見ているとそんなことはお構いなしに男の世界は描かれているように見える。女の世界も同じく描かれているのだが、どちらかというと、女の世界が男への差別をすることは少ないようにも見える。これは感覚的なものか勉強不足なのかわからないが、そんなふうに感じるのと同時に、どうしてか男女差別がないと、物語がうまく進まず、面白くなく感じてしまうこともあるのだ。あとで詳しく話そう。

「男女差別」って言いなれているからそう言っているけど、つまり「性差別」ということだよね?調べてみると、そいつを「ジェンダー」っていうんだな。
このページの1文がわかりやすいか。

ジェンダー(gender)とは、生物学的な性別(sex)に対して、社会的・文化的につくられる性別のことを指します。世の中の男性と女性の役割の違いによって生まれる性別のことです。たとえば、「料理は女がやるもの」って考えている人、いますよね?料理=女のシゴト。でも男で料理上手もいるのに?この性別がジェンダーです。
https://www.jica.go.jp/nantokashinakya/sekatopix/article004/index.html

男ならこう、とか、女ならこう、っていう考え方はやめましょう、っていうことだな。すごいわかりやすいが、正直言って、まだ私自身が本当に理解できていない。
子供のころピアノを習っていたが、ピアノは女の子がやるもので、男の子がピアノをやるのは変、みたいな感覚はたしかにあった。女子にも「男子なのにピアノやってるー」とか言われたが、そんなに傷ついたりしなかった。でもその疑問をピアノの先生に投げかけてみると、「偉大な音楽家はみんな男の人だったんだよ」と教えてくれた。逆に言えば、男でないと音楽家にはなれなかったのだろうか?その反発なのか、ピアノは女の子がやるもの、としたのだろうか?このピアノへのイメージは謎としてとっておいて、ここで大事なのは、女の子がやるもの、という偏見が「ジェンダー」ということなんだな。

いま日本にあるモノやコトの中で「ジェンダー」として簡単に思いつくものを考えてみよう。

・男が大黒柱である
・男が稼いで、女は専業主婦が豊かだ
・男のほうが年収が高い
・政治家に女性が少ない
・便所は男が青、女が赤
・スカートは女
・花柄は女
・男は女を助ける。守る。

などなど、大きなものから小さなものまで、考え始めたらきりがない。ジェンダーだらけだ。ジェンダーだらけだから私は迷う。どこまでを問題として、どこまでを問題としないのか。

迷ってしまった私はほんの少しの検索したあと、自分なりの答えが見つかってしまった。
そう、実はそんなに難しい問題ではないかもしれないのだ。ジェンダーについて、ほとんどの問題は「男の問題」だということだからだ。

「男性にとってのジェンダー平等とは」(視点・論点)
関西大学 教授 多賀 太
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/444230.html

このNHKの記事を読むとわかりやすいが、つまり、日本というか世界にも男の優位的な立場を作ろうとする習わしがあって、とくに日本は「男らしさ」というような言葉で男たらしめることによって、男の優位性を築いてきたのだ。「男女平等」とか「男女差別」とか「性差別」と聞いてもピンと来ないのは、「女の人が苦しめられている問題」と言われているからだと私は思う。男女差別とかジェンダーとか言われても「女の人を苦しめていないと思っている男」にはまったく響かない。「DVをする」とか「女の人を3歩下がらせて歩く」とかと、あからさまにどっかの男が「女性を苦しめている」ならば、「男女差別だ」とすぐに思えるかもしれないが、「DVをしていない男」にとってはピンとこないまま、別の世界ごとのように聞こえているわけだ。

・男女差別をしている男には、差別やジェンダーなんて言葉は耳に入らない
・男女差別をしていない男には、差別やジェンダーと言われても当事者じゃないからピンとこない

たしかにこれでは問題は解決していかない。「女性が苦しめられている問題」というだけではダメなのだ。ではなんと言えばいいのか?
いま言われているジェンダーとか男女差別の問題は「女性が苦しめられている問題」とは表現せず「男が優位になろうとする問題」としても扱わないと、ピンとこないはずだ。「男が優位になろうとする問題」と言われたら、ほとんど99%の男が「優位になろうと思ったことはある」と答えるはずだ。「女々しくならないようにする」「女みたいに泣かない」「男は女の人を助ける」とか、そんなことを言われたり思ったりしながら育ってきたという男が対象なら、ほぼ全員が当事者になれる。そして「パニッシャー」に代表されるマッチョなアクション映画を見てきた男たちの心のどこかには、女の人が危機に陥ったときには銃があったらぶっ放して助け出す、などという妄想が”常に”描かれているのだ。チャンスさえあれば「ヒーローになりたい」そう願っているものなのだ。そうでないと、「パニッシャー」などのクライムファイターやアクション映画は需要がない。需要、そう、男たちの願望や妄想が「パニッシャー」を生み出していると言っても過言でないはず。しかし我らのヒーローをジェンダーの悪者にしてしまう前に、その「男たちの願望」について考えてみよう。

SMAP らいおんハート
SMAPの歌う「らいおんハート」は野島伸司の作詞である。売れに売れた曲だ。「君を守るため そのために生まれてきたんだ」という歌詞が印象的だが、この部分は日本の歌謡曲の象徴とも言えるのだ。「君を守る」という表現は、男性のみならず女性歌手の歌詞の中にも出てくるが、ほとんどの場合、歌詞の中で「君」というと女性を差し「僕」というと男性を差す。この曲「らいおんハート」は、男が女を守るというケースだろう。「君のママに出会った 僕のようにね」と言ってるから確実だ。そしてこの歌詞は「ジェンダーだ」と言えるだろう。ただ「男女差別」とはならないはず。「男が女を守る」という思い込みはジェンダーに触れるが、「男が女を守る」こと自体はまったく問題はない。「男が女を守るものだ」「男は女を守らねばならない」というのはよくない。「女が男を守る」こともあるし、「女が男に守られねばならない」わけでもない。だが「誰かが誰かを守りたい」のならば、大いに結構だ。「らいおんハート」は「愛した人を守りたい」という意味でやさしさにあふれた歌であって、すばらしい。すばらしいと同時に、この歌詞から反面教師として「男が守るべき」「女は守られるべき」というジェンダーはもう古臭いということでもあるのだ。

しかし、だ。「男が守るべき」「女は守られるべき」とは思ってはいけないというけれども、「パニッシャー」にはそんなことは通じない。「パニッシャー」であるフランク・キャッスルは最愛の妻、子供たちを守れなかった。その怒りと悲しみから、ビリー・ルッソをぶっ殺したい限り、それだけなのだ。しかし情に流され、一度はビリーを殺し損ねる。だが、ビリーはそれで立ち返るような悪党ではない。やはりフランク・キャッスルは、Season2でビリーをぶっ殺さなければならなくなる。とまあ、日本で言えばVシネなんだが、これがアメリカで作られるとヒーローものの現代ドラマに仕上がるのだから不思議だ。しかしアメリカドラマの「男が女を守る」、これがなければどうにもこうにも仕上がらない。そして偶然出会った少女に「君を守りたい」とまで言う。やはりパニッシャーは「男が戦い、女を守る」という従来の構図からは、現代でのリメイクとあっても少しも逸脱しない。このマッチョな世界はこれでいい。だが、現実がこうであるとある問題が起こる。なぜなら「社会(あるいは男が)が存続・持続できない」ということにつながるというのだ。

持続できない、ということはどういうことだろう? 持続できない=最終的には人類の破滅を差す、と言ってもいいだろう。「男が優位になろうとする問題」を解消しないと、こうなるというわけだ。
女性が活躍できないので人材不足となるが、男は優位に立ちたいのでなんとか男たちだけで国を支えようとするも、過労に過労を重ねてくたばり、国力を損なっていく。国力が損なわれると子供を育てるのも簡単でない社会になっていき、社会が窮屈になると若者が失望し始める社会になり、やがて活気が失われていくことになる…。そう、気が付いたかもしれないが、今がその姿だ。すでに「男優位」の社会には限界が来ていたのにもかかわらず、日本はそれを是正しようとできないか、しようとしないのか、とにかく今、国力が失われつつある、その過程に入っている。日本の男が変わらなければ、日本は自滅する、ということだ。

しかし私はいわゆる男女差別とかジェンダーという世にある考えや言葉をまだ信じ切っていない。もう時間がないのにもかかわらず、まだそんなことを思っているのだ。時間がないことはわかっている。わかっているが、男女差別やジェンダーというものを日本語に訳しきれていないのではないかと思うのだ。つまり、差別、という言葉だけでも、差別ってなんだ、差別差別言ってたらなにもかもが不平等じゃないか、などと極論に至ってしまうのは、おそらく言葉に欠陥があるからだろう。ジェンダーなんて言葉ははっきりいって耳に入ってきても抜けていってしまう。意味をすくえない。男女差別、と言っても、男女の差は身体的にも思考的にも確実にあるので、そういったことをダイレクトには理解しづらい。しかし日本語という言葉には豊かな表現力があり、昔の人たちはそれを利用した言葉の力で世の中を動かしてきたと言っても過言ではないだろう。その言葉の力で、ジェンダーを表現して、日本人を納得させるべきだし、差別という言葉が肥大しすぎてしまった今こそ、違う表現で、かつ日本人の誰でもがわかりやすい言葉に置き換えるべきだと思う。そうすることによって…
そうすることによって、きっと、日本には日本なりのジェンダーや性差別のとらえ方と解消の仕方が生まれるんじゃないかと思っている。つまり、外から入ってくる考えが必ずしも日本にマッチするとは限らないわけで、マッチする部分は大いに取り入れればいいし、古くても良い部分は理解したうえで保存すればいいのだ。女性は3歩下がって奥ゆかしくする、なんていうのはバカバカしいが、舞子さんがそんなことをしていたりするとなんか美しい、なんて思ってしまうわけだな。男は一家の大黒柱だ、というのもバカバカしいが、男にはしっかりしててもらいたい、と思う女性だっているかもしれない。それならそれを尊重していこう、だが、ダメなものは暴力であったり、生まれや性別などで不利益を被ったりを許す社会は持続できない、そうみんなが知っているか、心に刻まれているか、すぐに思い出せるように誰もがそれを教えることができるようにわかりやすい言葉に置き換えられているかが大事なことなのだ。極論や極端な例で論破しようとする者もいるかもしれないが、恥ずかしいからやめたほうがいい。そんなことに頭を使う余裕があるなら、差別という言葉をもっと違う言葉で表現してみてくれ。

はあ、長くなった。やっと本題のパニッシャーに移れる。
パニッシャーは家族を守れなかったこと、戦争で傷ついた反動、友人の裏切り、などなど、いろいろな理由から処刑人を買って出ているのだが、やはり根底はマッチョな「男らしさ」から、悪党に向かって銃をぶっ放し、ナイフで切り刻みたいのだろう。登場する女性たちは、銃を構えるが、パニッシャーほど簡単には人を撃つことなどできない。銃を構えるだけでも相当なストレスを抱えている。それは「女らしさ」からなのか。いや、親友でありパニッシャーを手助けしているカーティスも、人を傷つけ殺すことに辟易している。戦争で傷つき、帰ってきたとしても、その結果どうなってしまうのかを、帰還兵のセラピーをしていく中で痛いほど知っているからだ。このドラマの中では、男も女も人を殺すことには変わりないが、ただただパニッシャーだけが躊躇なく人を殺せるのだ。そういう能力を宿しているのがパニッシャーだからだ。人殺しを正当化しているパニッシャーに問題は五万とあるが、フィクションの中ではおかまいなしだ。家族を失ったことを理由に暴れまくる。やりたい放題だ。

やりたい放題、にする。
やりたい放題のパニッシャーは極端で、極論なのだが、ジェンダーが解消され(ジェンダーが解消されるっていう言い方でいいんだろうか?)、性差別がなくなることと、近いものを感じた。結局のところいまの社会にある大きな問題は、男女という役割を決められないで「したい」ことをできる社会にならないと存続できない、ということなのだ。と理解している。

●性別問わず制服を自由選択に 「つらい」の声に学校動く
https://www.asahi.com/articles/ASP2K331XP2JUDCB010.html
千葉県の県立高校が、1人の女子生徒(18)の声を受け、校則を変更した。スカートをはく男子生徒が現れ、周辺校でも同様の制度を検討する動きが出ている。
…女子生徒はスラックスで登校するようになり、今は3年生。「友人は良かったね、と言ってくれた。スラックスになって毎日楽しく学校に通えた」と喜ぶ。

女子、男子、問わず、着たいものを着て、やりたいことをやり、自由に語り合える社会を目指す。そんなことはできないと言うかもしれないが、「目指す」のだ。目指す過程ではいろいろな発見も起こり、軌道を修正していけるだろう。すでに2020年以降の高校生たちや子供は動き始めている。

ジェンダーを突き詰めていくと、男らしくしたい、女らしくしたい、という人は、それはそれでいい、と、ジェンダー問題の根源となっている「古臭い考え方」をも受け入れることになるだろう。どうしたい、かは誰であっても自由なのだ。同時に他人のどうしたい、を阻むことはしてはならない、ということなのだ。他人の自由を阻むような考え方や言動をなくしていくことで、社会は持続でき、存続していけるわけだ。逆に、自由を阻む社会では存続ができず、かなり不利な社会になってしまうということだ。ここは重要なので繰り返しているが、本題のドラマ「パニッシャー」が突き進んでいる考え方や行動では人類は存続できるか? 私はまずできないだろうと思う。殺戮は人類を滅亡させるだけだからだ。だが、一旦はパニッシャーをも阻まずに、受け入れて考えてみるというキャパシティが今の私たちには必要なのだ。

パニッシャーがスカートをはいてピンクのへそ出しタンクトップで銃撃するところを想像してみてもらいたい。
ジェンダーが解消されると、そんなヒーローが受け入れられていくだろう…いやいやぜんぜん雰囲気が出ない。やっぱりヒーローはヒーローたる原始から伝わる役割を与えられていて、それに沿ったものでないと雰囲気が出ないのだ。その「イメージしている雰囲気」というものこそが人間が長い歴史の中で積み上げてきてしまったものだ。ヒーローがどんな格好していたっていいはず。なのに人々は端から決めつけてしまっているために、差別がなくならない…。悩ましい。すごく悩ましい。私は、映画やドラマに存在するヒーロー像やヒロイン像にある差別の香り、それ自体は、今のところOKだと、私は思う。ただ、「現実」と「フィクション」は違うものだ、と理解している条件付きでだけれど。現実は現実で、フィクションはフィクションとして考えていけないと、映画やドラマにも存在する性差別を解消または理解するのは難しいだろう。パニッシャーが持続・存続できるかはみんなの柔軟さにかかっている。性差別を解消しようとするあまりに、フィクションさえも消えてしまいかねないのだ。さあ、どうすればいいのか? もう少し私が考えたことを次に話してみたい。

性差別を解消しようというのはなにも、元からある男と女にある性差をなくそう、ということではないはずだ。女性には子供を宿す機能があり、男には子供は宿せない。男は体格差から狩りに出かけ、それを待つ女は料理をするようになっていった。ここまでは成り行きとしてよいだろう。ちょっと原始時代のたとえ話を続ける。ある体格の小さな男がいて、狩りには向いていなかった。料理をするようになるが、狩りをする男たちからは女みたいだとバカにされた。代わりに体格がいい女が狩りに参加するようになった。男たちは男みたいな女だ、と言うようになった。この辺りがジェンダーの誕生だ。ある日狩りをしていると、狩りをしている女が追い詰められた、そこへその女に惚れていた男が馬鹿力に任せて助け出す。女も男に惚れて、結ばれる。ここでヒーローが誕生する。奇しくも私の妄想の中では、ヒーローがジェンダーのおかげで誕生してしまうのだ。そんな原始時代ではジェンダーがあったほうがいい部分もあるのかもしれない。だが時を経た現代では、狩りもしないのに男は女よりも優位に立つべきだと思い込まされたままで、男でも女でもできるような仕事をしているのにもかかわらず、男は「優位に立たねば、優位に立たねば」と頑張り続けてしまい、追い詰められていく。つまり原始時代の「男」的な考えをする人が持続、存続できない社会になってきてしまったのだ。コンピューター仕事なんて、男でも女でも、あるいはAIでもいいわけだ。なのに男はいきり立って、がむしゃらに仕事をする。原始時代で例えれば、もう狩りはしなくてもいいのに、優位に立ちたいがために、無駄な狩りをしてきたり、仕事をする振りをみせたいのか、木を切り倒したり、腐るほどの木の実を持ち帰ったりしているようなものか。バカみたいだ。しかし現実だろう。
だが、フィクションの中では、バカでないと面白くないし、フィクションなのに現実なんかやられても困る。フィクションはフィクション、それでいいと受け入れることそのものが、映画やドラマの持続にはとても重要なことだと私は思う。その思考回路がやがて私たちにジェンダーレスな思考を促してくれると思ったりする。現実は、スカートをはいてピンクのへそ出しタンクトップのジョン・バーンサルがいても全然いいのだ。それも受け入れつつ、フィクションの世界も受け入れる、そうしないと、極端な理解から、映画自体をつぶしてしまうことになってしまうかもしれないからだ。

Sense8を見るとよりそのことがわかる。ミゲル・アンヘル・シルベストレ演じるリトはヒーロー役の役者だがゲイであるため、そのことに悩むが、どんなファッションをまとおうが自由だというところに行きつく。
https://www.netflix.com/jp/title/80025744

おそらくパニッシャーは原始時代の男の最後の生き残りになるから記念として我々の心に刻んでおかなければならない作品だ。パニッシャーを心に刻むことで、フィクションと現実にあるジェンダーを常に考えられる。そうすることでヒーロー映画は持続できるし、社会も持続できる。そう、パニッシャーが世のためと処刑を繰り返すのなら、パニッシャーが本当に世のために処刑すべきはジェンダーだ。次のシーズンではそうなることを期待する。

※ジェンダー=性差別として、いつかは言葉自体も解消されるべき言葉として使用しています。ジェンダー自体がなくなること、それが理想と思っています。間違っていることなどがあればコメントください。

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カテゴリー: ベスト映画, 映画 | 投稿日: | 投稿者: