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RED LIGHT レッド・ライト 映画解説

大学

次のシーンでは大学の講義室でマーガレットが授業を行っている。内容は霊媒師が見せたテーブルのトリックについてだ。
マーガレットの主張は一貫していて、この30年の間に起きた超常現象と言われる事象全ては自然科学で説明がつくものであるという。ただ私たちは奇跡にまだ出会っていないのだと。
日本でいう奇跡とは統計的に有り得ないことが起こったときに使われることが多い。キリスト教圏では、奇跡(ミラクル)と言われれば第一に聖書の中にある驚きや徴(しるし)やバチカン認定されている奇跡のことを思い浮かべるだろう。マーガレットが奇跡の前提をこの30年に限定しているのも、全ての検証不可能なミラクルには触れないようにしていると思われる。数世紀も前に認定された奇跡や歴史上にある信じられない史実には触れないよう、慎重に言葉が選ばれている。

困ったことに映画や芸術を受けとめるときには変てつもなく見える言葉ですら、その国の文化や宗教と密接であることを踏まえないと理解できないことが多い。映画のストーリーを解釈しようと目を凝らして見ていても、聖書すら真面目に読んだことがない私は、よく迷わされる。

この30年という数字は宗教や歴史の批判を避けると同時に、マーガレットの研究期間、彼女の抱えた因縁が起こった年の説明にも当てられている。
マーガレットは30年前にもサイモン・シルバーと対決した。そのときに彼女はサイモン・シルバーの神通力に制された。というよりも、彼の心理を突いてくる汚いやり方で、自分自身への疑念と敗北を同時に負った。このときの負い目がマーガレットの研究や、このストーリーにある動機のうちの1つでもある。疑念を持った自分への悔しさが、本当の超常現象を見つけたいという強い動機になっていったのだ。これは後でじっくりと触れよう。
マーガレットが持つこの強い動機に吸い寄せられたのがバックリーだった。マーガレットはバックリーにとって、彼が持った特殊能力への疑念を晴らしてくれるだろう鍵だったのだ。
そうだとすれば、二人の動機には相反するところがある。マーガレットは本当の超常現象があってほしいと思って偽物を否定する研究を続けているが、バックリーは誰か自分と似た者が居てくれないか、あるいは、やっぱり超能力なんてものはまやかしなんだと決定的にしてほしい、と偽物でもなんでもいいからがむしゃらに超常現象を追っていっているのだ。この二人の動機の反比例がレッド・ライトの良くできたシナリオでもあれば、面白くてかつ重要な部分でもあるから、忘れないようにしてもう一度映画を観てもらいたい。

オーエン

バックリーに思いを寄せる学生のオーエンがいる。二人はローカルなダイナーでコーヒーとスムージーを前にして楽しげに会話を進める。
この会話では二つのポイントがある。
マジックは間違った視点で見ているからマジックになるんだ、とバックリーは言う。
もし霊能者に胃の痛みを訴えた母親が、大丈夫ですよ、と言われたままに信じて、それが癌で手遅れになっていたとしたら?、とオーエンの質問に答えた。

オーエンは単なる知りたがりではなく話を運んでくれるインタビュワーであり、ゲートキーパーでもある。そのためか、バックリーはいつも彼女の質問には手を妬かされては誤魔化し、答えられない。
この若い女優は、果たしてロバート・デ・ニーロと撮影現場で会うことさえできたのだろうか?などと勝手に心配させられるほど、シルバーとの絡みがない。その代わりかどうかはわからないが、主人公バックリーに付きまとっては観客の聞きたいことを聞き出そうとしてくれる重要なゲートキーパーの役を担わされている。

ときどき日本のCMに有名なハリウッド俳優が起用されるが、撮影に来日などしていないのがバレバレなものをよくみかける。話しているかのようにうまく合成しているが、物理的な交わりを避けた構成で別撮影しても少しのCGで誤魔化せるように考えられている。そういうことって、いいのだろうか。視聴者を騙してはいやしないか。
いえ、いいんです。
テレビなんてものは最初から真実だけを伝えるなんて一言も断言したことはないのだから。

バックリーはマジックを彼女に見せて、第一ポイントである「視点」の話を出す。
マジックは間違った視点で見るからマジックになるんだ、という。ということは、正しい視点で見ると、マジックにならないのか。これは弁証法を出すまでもなく正当な答えだ。

正しい視点で見るということはどういうことか。
ここでいう「正しい視点」というのは、出来事を出来事として捉える、という意味と、なにが大切なのかを見極める、という意味の二つが含まれると考えている。次にバックリーが言う台詞の、
「もしウサギを帽子のなかに隠したいのならば、元あった場所に戻せばいいのさ」
は答えそのものだ。
オーエンに見せたマジックは、
消えたコインは消えて移動したんじゃない、元からそこにあっただけなんだ
ということを表している。灯台元暗しを地でいくような話だ。ウサギもコインも消えやしない、消えたと思ったのはアンタだろ、と言われてもはっとしないならばよく理解しているか盲目なんだろう。
とかく人はターゲットを見失いやすく盲目的な生き物で、手品でもなんでもタネ明かしをされた途端に興味がなくなるくせに、タネがわからないままだと興奮を高めていくばかりだ。
しかし人は本当に盲目なわけではない。マジックショーもバックステージに立てばなんということはないカラクリが見えるはずだ。観客席から見ているから、騙されてしまうというだけだ。視点を正しい位置に変えれば、盲点は消失し、物事の真の姿を捉えることができるはずだ。そのコツの1つとして、元あった場所に立ち返れ、と言っているのだ。猫を飼ったことがある人ならば、猫が狐につままれたようにして姿を消してしまうことがあるのを経験したことがある人もいるのではないだろうか。遠くへ行ってしまったのかと、家を飛び出して近所中を捜索するが影も姿もない。そんなときは大概にして縁の下や、家のすぐ側にいるものだ。

(ネタバレ注意) 映画「イカとクジラ」では、いつも近くに原点がある、という隠れたテーマがあって、猫も家の階段の下にいたし、それにかけて、少年が家族との良き思い出として記憶していた博物館の大王イカは階段の下に展示されていた。

立ち戻れば探していたものは元あった場所にあるはずなのだが、人はなぜか原点に帰ることを怠りやすい。そこが人の盲点であり、マジックのつけどころでもある。原点を見ようとしないポイントレスな状態こそが真の盲目であって、視覚が物理的に働いているかどうかではない。目の前の出来事を出来事として捉えようとしない状態、つまり、視点を変えようとしていない人はみんな、盲人なのだ。

シルバーというキャラクターに盲人という特殊能力を与えたのも視点を語ることと関係している。シルバーはストーリー中で何度も視覚について語る。その行為事態がシルバーを守る隠れ蓑でもある。

映画を観ている途中でシルバーが盲人ではないことに気がついた人も多いかもしれない。私は気がつかなかった。しかしそんなことはどうでもいい。気づいても気がつかなくてもどちらでもいい結末になっている。お化け屋敷じゃないから、気づいていたら気づいたなりの考察が出来るはずだ。
世の中には、
途中でネタを掴んでしまって面白くなくなってしまった
、と言う人々もいるだろう。だが、その「もうわかった!」という超能力者にでもなった気分は、最後を見るまでの単なる予想でしかない。晴れてその予想が当たったときだけ「やっぱりな」と言う。単に自身のインチキな透視能力に陶酔しているだけだ。
私の会ってきたギャンブルで負け続ける者に「やっぱりな」のセリフを言う人は多い。「来ると思ったのだが、買わなかっただけだ」と。なぜそんなことをする必要があるのだろうか。買えばいいのに。
本当に映画のネタを途中でつかんだからそこから面白くなくなるのか。物事が予想通りだと面白がることが出来なくなるタイプは、何かの支えを求めてニセ超能力者の周りに集まってくる盲目な信者たちと同じだ。予想が当たらない、人知の及ばない力を求めるその人々こそがこの映画を作る動機だと監督は言っている。
※監督のインタビューより
つまり、この映画に限ってかそうでないかは各々考えてもらうこととして、私としては映画の結末なんて予想通り行っても行かなくてもいいと思っている。出来事を出来事として捉えることの方がずっと大事なことだからだ。わかった気になって見ようとするその見方こそもっとも危ない視点なのだ。

ネタバレでストーリーから価値が削がれると思うようなタイプの人は特に聖書は読まない方がいい、という思いが過った。多くの作品が聖書にならい、ストーリーが作られていることを知ってしまうことで面白味を持つことができなくなるだろうからだ。
本当にそうだろうか。
そんなことはない。キリスト教国家であるアメリカ本国でさえそんなことにはなっていないはずだ。観衆は様々なこと(宗教はおろか人種差別もテロも戦争も)を既に生活や文化の中で知っている。なのにも関わらず、キリスト教に習った映画が常に作られているのはなぜか。
ここで我々は、なぜシェークスピアやディケンズが何度もリメイクされているのかを考える必要があるだろう。結末なんてものは知っていてもいいのだ。それより、何度見ても味わえるなにかがあることがストーリーの魅力の一つにもなることを再認識しなければならないのではないだろう。私はレッドライトには、何度も見ては毎度自分を疑い続けられる魅力があると思っている。

話を戻そう。
バックリーにとって、 マーガレットは大事な曇りなき眼を持った師である。バックリーはマーガレットになら無償で協力出来たし、それが自分への疑念の慰めでもあった。
バックリーにとって、視点は3つある。
シルバーのようなインチキな目。
マーガレットのような真実を見抜く目。
そして疑念に満ちて受け入れることのできない自分の目。

この自分に対する疑念こそが最もバックリーを悩ませている。バックリーは出すぎるようなタイプでもなく、もっと賢く生きられるはずだった。だが、特殊な能力を持ってしまったがためか、人生が狂ってしまった。バックリーは、受け入れられない自分を正当化できる機会が訪れないかと、うかがってきたのだ。シルバーは自分と似ているかもしれない、あるいはペテン中のペテンかもしれないというアンビギュオスな存在である。敵とか味方とかでは割りきれない、オイディプスの父のような存在だ。
そういったバックリーの歪みを感じ取っているオーエンには、彼がミステリアスな分、魅力的な男に見えているようだ。

オーエンは二つ目のポイントである「バックリーの目的」を深く聞こうとする。バックリーは神妙な面持ちになって、母親の病状が手遅れになってしまう例えを出す。恐らくだが、バックリーはこれに匹敵するショックを受けたことがあるのだろう。本当に母親を亡くしたか、しかもそれはシルバーによるものだったとか。あるいはバックリー自身が誰かの役に立とうとして失敗したか。彼は自分の特殊能力をコントロール出来ていないのだ。
どのようにせよ、あの悲痛な表情から、バックリーは暗い過去を持ち、インチキを暴くことと自身への疑念を晴らすために必死なのだということは理解できる。

この二つ、「正しい視点」「目的」をつかみ損ねると、何度見てもわからなくなって、味の薄い映画になってしまう。しかしこの二つをかいつまんでいれば、この映画が深いものだとわかるだろう。

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RED LIGHT レッド・ライト 映画解説」への3件のフィードバック

  1. 峰 克也

    初めまして。
    映画レッド・ライトの考察楽しく読ませていただきました。
    映画は全般的に好きなのですが、特に本作のような作品が大好きでDVDを探しては何度も見返しています。
    ですが、鈍感な為二度三度見てもなかなか理解できない事が多くもやもやする事ばかりでした、
    以前、大好きなD.リンチ監督のマルホランド・ドライブを見た後、どうしても理解に苦しんでいた時
    たまたま、こちらのような考察を読み、それから映画の楽しみが何倍も膨れ上がりました。
    それからはドニー・ダーコやメメント、オープン・ユア・アイズなど何度も見返しては自分なりに推理して楽しんでいます。
    まだ見ていない傑作がたくさんありますので、これからも色々と紹介していただけたらと思います。

    返信
    1. admin

      コメントありがとうございます。
      映画って本当にいいですよね。
      この映画は表面的なトリックで観衆を翻弄しているんですが、多重レイヤーな伏線があるように見せていて、実は解説したようにシンプルな幹に枝葉がついたものだったりしますね。
      その罠にかかって推理していくのはとても楽しかったです。

      私も鈍感です。なので何度も見返します。この何度も見返したい、っていう映画に出会うと興奮しますね。そうするとわからなかったことが見えてくる。疑問が見えてきたらメモして、昔の映画に似たシーンがなかったかと思い巡らせてと、やっているととっぷりと日がくれていきます。
      マルホランド・ドライブではどこかの精神科医の人の解説が好きでしたね。あれには影響受けています。マルホランド・ドライブはあの解説で精神的な病み付きにさせられましたよ。
      あまり話題ではないですが、ロドリゴ・コルテス監督繋がりで「emergo apartment 143」の映画も傑作ですので、是非です。

      返信
  2. ピンバック: 映画「emergo Apartment 143」 エメルゴアパートメント143 ネタバレ解説と感想 | MOVIE PIE

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