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聖書の読み方がわからないばっかりに遅れを取ってしまった分を取り戻そうか

聖書を読まずに遅れを取ってしまった分を取り戻そうか。ある日あることからそんな風に思い立ち、昔、上智大学で買っておいた聖書を本棚から引っ張り出した。

ちなみに私は信仰を持っていない。なので、この記事は特定の宗教の勧誘でもない。世界的に読まれている書物としての聖書を、読み方がわからなかったために避けてきていた経緯があって、読み方さえ解ればそこそこ面白い書物なんだと思えたのでメモしただけ。

読み方というか、取っ掛かりっていうか

聖書の読み方とは記したが、正しい読み方なんていうものはないんだと思う。どっから読んでもいいような構成になっているし、特に信仰を持っていない人なんかは気ままにめくってみることから始めるのも悪くないだろう。しかし、読み方とは言わないまでも、前知識をいれておいた方が分かりやすいタイプの書物であることは確かだ。

いわゆる我々が聖書というときはキリスト教の聖書を指していることが多いだろう。しかし聖書はユダヤ教、イスラム教でも使われているものだというのだ。といってもキリスト教の聖書は旧約と新約を合わせたもので、ユダヤ教の聖書は旧約だけ、イスラム教は旧約新約とさらにコーラン(クルーアン)も含めたものを聖書としているんだとか。えー、知らなかった。ではなぜみんな仲が悪いんだ?と考えたが、それはまた別の話で。
ここでは、新約、旧約を扱っているキリスト教の聖書を中心に話すが、聖書と聞いてキリスト教だけではないということを覚えておくべきだろう。

キリスト教で一番よく知られた人はイエスだ。イエスもまたユダヤ人。ということはイエスさんもバリバリのユダヤ教だから、ユダヤ教を元に、やがてキリスト教になる教えをしていた人ということになるわけだ。まさかイエスさんが、「キリスト教という宗教を開きましょう」と言って開いたものではなく、教えを受けた人たちが内容を受け継いで行くなかで、イエスっていう救世主がいてね、とみんなに伝え広めたのがキリスト教なわけだっていう。長年の認識と違っていて驚いた…。イエス・キリストっていう名前も少し勘違いしていて、わたくし、『イエス』というのが名前で、『キリスト』っていう苗字だと思っていた。
しかしキリストの部分は苗字なんかじゃないという。キリストっていうのは、実は『救世主』を指す言葉なんだそうだ。知らなかった…。
ということで、イエス・キリスト様は誰かがつけた通称であって、本名じゃなかったんだね。単に、ナザレ出身のイエスさんという意味で「ナザレのイエス」と呼ばれることも多いんだとか。なるほど、そうならキリスト教というのはイエスさんのことじゃなくて、救世主教と訳すのが適当なのかもしれないな、とか考えさせられたのだった。

イエスはイスラム教でも認められている?

じゃあ当時のイエスさんはなんだったのか、となると、ユダヤ教を伝える一人のラビ、つまり伝導者、的な人だった。その人が全ての罪を背負ってくれたから我々はもう常に救われているのだ、っていう感じになったのがキリスト教で、いやいや、イエスさんもいい働きをしたけれども、もっと大事なことを神から授かってそれをイスラム語に記しなさいと言われた人がいた。それがイスラム教のムハンマドさん。マホメットとかモハメッドとか発音の違いがあったりするけど、同じ人。
下はwikipediaからの抜粋。

『ムハンマド(アラビア語: محمد‎ Muḥammad、570年頃 - 632年6月8日)は、イスラーム教の開祖、軍事指導者、政治家。アラビア半島西中部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとり。イスラーム教では、モーセ、イエス・キリストその他に続く、最後にして最高の預言者(ナビー)でありかつ使徒(ラスール)とみなされている。また世俗君主・軍人としても有能であり、アラビア半島にイスラーム国家を打ち立てた。』

ここでもモーセ、イエス・キリストが出てきている。
イスラム教は、ユダヤ教、キリスト教に続いた教えとなっているわけだ。こんなことも知らなかった…。イスラム教って、キリスト教とは全く別だと思っていたからなあ。まさか同じ聖書を使っているなんて!
とにかく、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は全く違う宗教ではなく、どこかで繋がっていることを意識しておくと理解が深まるということだ。

ということで、キリスト教の聖書に戻る。
キリスト教の聖書では、新約のところがキリスト教にとってはメイン部分だ。しかしながらナザレのイエスさんもユダヤ教を元にしているわけだから、ユダヤ教正典もつけとかないと話がうまく辻褄が合わない、そこで旧約っていう名前にしてユダヤ教の聖書もつけとこってなって、新約と旧約をつけた聖書ってものがいわゆるキリスト教の聖書になったってわけだ。
そういうことなら、旧約部分を読んでいるときは、ユダヤ教正典なんだ、って思わないと少し偏見がある。ユダヤ教の人からすれば旧約なんていう古めかしくされても困るからだ。なのでここでも旧約とはなるべく言わないように話したい。
※この旧約とか新約とかの「約」ってなんだろうな、と思った。約束の約っていうことらしく、神との約束の、つまり神との契約なんだそうだ。
wikipedia から抜粋

『ユダヤ教にとっては(旧約)聖書は唯一の正典であり、現在も行動を律する文字通りの法である。民族の歴史を伝え、イスラエルの地を民族の故地とする精神的な基盤を与え、行為と歴史の両面において文化的な一体性を与える書でもある。
対して、将来にユダヤを復興するメシア王を約束する『旧約聖書』を、キリスト教徒はイエス・キリストの出現を約束する救済史として読む。『旧約聖書』の代名詞にも使われる「律法」はもはやキリスト教徒の戒律ではないが、キリスト教徒にとっては『旧約聖書』の完成がイエス・キリストとその使信であり依然として重要な意義をもっているとされている。』
新旧でわけるとすれば、イスラム教が一番若いから、イスラム教が新約で、キリスト教が中約で、ユダヤ教が旧約とかになるか。新しいとか古いとかいい始めると喧嘩になりそうだからやめた方がいいなって直感的には思うなあ。

ユダヤ教正典(旧約)

ユダヤ教正典は神が世界を作るところから始まる。そしてみんなもよく知るアダムが作られて、失楽園になってと、どんどん進んでいき、王様だのエジプトだの、壮大なストーリーが続いていく。登場人物には、アダム、イブ、モーセ、ノア、ダビデ、ソロモン、カインとアベルなど、聞いたことのある名前がたくさん出てくる。しかし長大複雑で、かなりのモチベーションがないと読みきれない。読みはじめは面白いかどうかではなく、なんで読んでいるのか?と人は考えやすいものだ。ユダヤ教でもないのに、なぜ読むのか?という自問に答えられる人は十分なモチベーションを持っていると言える。ここでモチベーションが上がりづらい人のために一番とっつきやすい話をあげておこう。

クリスマスはもろにユダヤ教ベースの話だっていうことを知っていらっしゃいますか? イエスさんの誕生日と思っていたのは間違いではなかったのだけれど(いや、イエスの正確な誕生日はわかってないとか)、なぜイエスはクリスマスに生まれたのか、なんて考えたこともなかった。この答えはユダヤ教正典の一番最初にある天地創造から知ることができる。
ユダヤ教正典の天地創造では、この世界には最初に闇があり、そこへ神様が「光あれ」と言って、世界に光を与えたことから天地創造が始まる。それから7日間かけて今の世を作ったそうだ。クリスマスに7日を足すとお正月。つまり世界の始まりをお正月の1月1日とすると、逆算すれば、光あれと光がともされたのがクリスマスになる。クリスマスはイエスさんの誕生日と共に、世界の誕生日でもあるわけだ。因みにクリスマスイブっていうのは、光が灯される直前の闇の世界だったころの世界のことで、24日の夕方、日が落ちて闇が世界を染めてから、光が灯される25日の日の出までの十数時間を言うらしい。クリスマスイブって、アダムとイブのイブが関係しているのかと思っていたのは間違いだった…。
というように、読んでみると自分の勘違いや不鮮明のままだったことが明らかになったりで、面白い。

「詩編」というセクションもある。これの23は有名で、映画「ウィッカーマン」でも引用されているし、なにかと使われているようだ。神は羊飼いで我々は羊です、みたいなことから詩が始まるのだが、この、我々は羊、というところが、人々を迷える子羊として、羊飼いつまり神が導いてあげるのだ、というとこのレトリックなんかは、うまいな、と思わせるものがある。まあ、ここは読んでみて噛み砕いてほしい。

映画でも見ているようなスペクタクルなシーンも多々ある。楽しい限りだ。だが、あの人はだれの息子で、その孫でと、家系の列挙には参らされる。ものすごい量の登場人物がいて、はっきり言って出しすぎっていうくらいの量だ。しかしそれはユダヤの歴史を物語る大事なことなんだっていうからしょうがないんだけれど。映画「第五惑星」に、先祖を美しい歌で覚え続ける宇宙人が出てきたが、ユダヤ的な思想があったのかもしれない。

ユダヤ教聖書の登場人物たちはものすごい長命で、アダムなんかは950歳あたりまで生きたようだ。海が割れたり、天使が暴力奮ったりと、ええ?と思わされるところは多々あるが、そんなことを含めてこの世にあるどんなストーリーでも持っていない壮大さを持っていると思う。さすが世界で一番読まれている書物といったところだ。

新約

キリスト教のメインである新約聖書は、まず四人の弟子たちが書いた福音書から始まる。これらがメイン。そして数々の手紙が続いて、ヨハネの黙示録で締め括られる。はっきり言って、ナザレのイエスさんが書いた文字は新約聖書にはどこにもない(ホント?)。弟子とかが聞いて覚えて、それを書き残したものだからだ。読んでみるとわかる。イエスの行ったこと言ったことを四人がそれぞれ書き連ねていったのが新約聖書という一冊の本のスタイルになっているのだ。いわゆる「氏曰く」という書き出しで語られる東洋のスタイルとも同じだ。
この構造を知っているだけでも理解は広がり安い。福音書、手紙、黙示録の三部構成をベースに作られていることもあってか、重複する部分も多い。同じことを他の誰かが語っているなんていうのはしょっちゅうだ。四つの福音書には視点が四つあり、四人の見方によって各々が書いていったものだから、あの人はああ言っているが、あの人はこう言っている、というように違いが出てくる。当然だが、同じ出来事を四人が語ると、こうも見方が同じだったりちがかったりするのね、という面白味もある。ルカの福音書からは、ルカ本人が血生臭いことを嫌っていたようだ、とわかるという。同じ出来事を四人が語る、というストーリー構成の斬新さに驚かされる反面、この構成の仕組みを知らないと、なんだか取っつきにくいことはたしかで、ただでさえ何を言っているのかよくわからない書物に挑戦しようってときには障害となる部分だろう。わかってよかった。
福音書は以下の四人が残した書簡から編まれている。

マタイ 共観福音書とか呼ばれ、構成など似ている。
マルコ 一番古いとされる。
ル カ
ヨハネ 他と毛色が違う。

この四人が残した書簡が福音書として新約聖書に納められている。ちなみに福音書とは「よい知らせ」という意味なんだそうだ。

ひとつだけ、個人的に好きな話を挙げてみる。
葡萄園を例えにした話がある。農園の主が町に働き手を探しにいき、朝や夕方に雇いいれるのだが、朝から働いた者と夕方から働いた者とに同じ給料を払ってやるのだ。もちろん朝から働いた者は不平を言うのだが、ここでイエスさんは良いことをいう。ネタバレはなしにしておくので、是非、探して読んでみてほしい。(ヒント マタイの福音書には確実にある)しかしここまででなにかのシーンとダブった人はいないだろうか。これ、映画「桜桃の味」の最初のシーンじゃないだろうか?
これがダブることで何を意味するのかはわからない。だが、かなり高い確率でキアロスタミはこの葡萄園の話と映画とをかけているに違いない。そこら辺からちょっと探ってみるか。
とこんな風に、数多の芸術やなにかとも、聖書の話は非常に関係が深いのだ。映画などで理解できないときには聖書からの引用だったりすることもよくある。聖書に一切触れずに難解な映画や芸術を理解しようと悩み続けるのも、厳しいものがある。

その他に多くの手紙が納められている。これらはまた次の機会にでも書き足したい。

最後はヨハネの黙示録。これも有名だが、名前だけ知っていてもなんのことかさっぱりわかっていなかった。そもそも黙示録ってなんだ、という疑問を長年放置してきた。調べてみると「明らかにする」という意味があるとのことだ。英語では「Apocalypsis Johannis」と表す。アポカリプシスが日本語の黙示録に当たる。啓示録のほうがいいのではないかとか議論もあるようだ。そういう細かいことはわからないが、黙示録というとなんだかわからない凄みがある。
じゃあ、何を明らかにしてくれるのか。これがよくわからなかった…。
コッポラの「地獄の黙示録」は有名な映画だ。Apocalypse Nowというのが英語の原題。「今こそ明らかにせよ!」とかの方が原題に近いか。「地獄の黙示録」なんていう邦題をつけた人はどこから地獄を持ってきたのか。ヨハネの黙示録を少しでも考慮したのであるなら、地獄が思い浮かんだかもしれない。ヨハネの黙示録は読んでみると不可解なところが多い。ヨハネの黙示録だけが見聞きしたことではなく預言的なことを含んでいるからなのか、ここには異次元の世界がある。読んでみると分かるが、まるで地獄でサルティンバンコのサーカス団が死刑執行人を勤めてくれていて、あまたのホラー映画が大集合してしまったかのような騒ぎだ。他の書簡や手紙に比べると現実味がないが、その分いきいきとしていて、想像をフルに働かされるのは黙示録の特徴だろう。人によっては馴染めなさそうな感じもいい。

さて、こうして話してきたのに、聖書の内容についてはほとんど触れていない。それは読むための楽しみを取ってあるから、というよりも、まだまだ自分が読みきれていないというだけだ。
とにかく聖書は世界的な読み物でありながらも日本人にはとかく馴染みのない書物でもある。キリスト教信者であるないに関わらず、一度は読んだり理解しようとしてみることはあっていいと思う。日本や中国あたりを除く全ての世界では、なにかしら聖書からの影響を受けた文化があるからだ。海外で働きたいとか拠点を日本の外に考えているなら絶対必要だネ。
家の近くで中学時代の友達とバッタリ会った。彼らは布教の最中だったという。どんな宗派かもわからないが、熱心なことだ。聖書を渡されそうになったが、買ってあった聖書があったのを思い出して断った。そういえば大分長いこと放置してしまっていて、ほとんど手をつけていなかったことを思うと、ちょっと読んでみようかと思って、読み始めたというわけだ。

敬愛すべきチャック・ノリスはチャック・ノリス・ファクトに対してこのように語っている。 (チャック・ノリス・ファクトとはチャック・ノリスに出来ないことはないとして茶化していたらいつのまにか起こっていた社会現象)

大部分の“チャック・ノリス・ファクト”は、私のことを、超自然的で、超人的な力を持ったキャラクターであると記載しています。そして、この惑星の歴史上に存在する唯一の超人であると解説します。それは私ではありません。
あなたの魂が癒しを必要とする場合、あなたが必要とする処方箋はチャック・ノリスの涙ではなく、それはイエスの血です。
チャック・ノリス・ファクトより

これは、聖書を知らなければチャックノリスの映画一つさえも理解できないと言っているようなものだ。チャック・ノリスの涙をも超えるイエスの血とは一体なんなのか。
こうしていくと、日本人の教育のなかに英語よりも、聖書と仏教を取り入れた方のがまだ良さそうだ。みんな宗教始めちゃって危ないって?いいじゃねえか、多少はマシになるかもしれないし。いや、真に知れたらば、入信するもしないも自分自身で決められるはずだ。少なくとも、挙げた二大宗教を知ることで世界の文化や人種を理解しやすくなることは確かだろう。英語を長年勉強しても得られるものは少ないのだ。

しかし、どんな聖書も言い伝えと訳しに訳がかかったような伝言ゲームの最たるものであることは踏まえて読んでいたい。歪曲もあれば真実もあるだろう。こんなことは宗教に限らず、歴史でもblogでもよくあることなのだから。

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