映画「レッド・ライト」を見ていたとき、妙にファミリアな気分になり、それからなんとも言えない残余感が消えないままエンドロールを終えてしまった。この場合のファミリアとは、親しみというよりも既視感に近い。だが、デジャヴのような、見たことがある、という視覚的なものは一切ない。
そういうファミリアさと残余感があったとしても、ストーリーが気に食わないとか、映画の欠陥によって解せなかった、というものでもなかった。
ファミリアな気分になったのはこの映画がロドリコ・コルテスの作品だとわかった時点で納得がいった。ロドリコ・コルテスは「emergo apartment 143」の監督だ。「emergo apartment 143」は前に考察したことがある。(→http://movie-pie.site/archives/47)リズムというか、物語への吸い込まれ方というか、今回のレッド・ライトともよく似ている。そのせいかはわからないが、残余感はいつの間にか、この映画を分解するエネルギーへと変わっていった。おそらく「見落としている」という感覚が残余感を起こしていたのだろう。たぶん、このページに訪れた人の中にもそんな感覚を「レッドライト」に抱いたのではないだろうか。
しかし分解しても尚も疑問、疑念は残る。それは
分解していった部品たちをこれから列挙していくので、暇だったら付き合ってほしい。暇だったらでいい、長いから。