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映画サマーウォーズ 小磯健二「よろしくお願いしまーーーーす」の意味

サマーウォーズで小磯健二が「よろしくお願いしまーーーーーす」と言った意味が巷ではさまざまに解説されているようだ。
↓このページでもなかなかいい解説がなされている。
サマーウォーズで小磯健二がよろしくお願いしますと言った意味や理由を考察! | 芸能便り

私見ではもうちょっと違うニュアンスがあると思うのでメモしてみたい。

「よろしくお願いしまーーーーーす」の台詞が出てくるのは、ラストのピーク、最後の計算が終わったときにエンターキーを押す直前の掛け声である。

小磯健二は全体に敬語口調なので、ここで「やってやるぜーーー」とか「バルス」とか「やっちゃえ日産ーーーー」とか、そういう荒い掛け声にはならないのは当然と言えば当然だろう。

では敬語だったら他に「すみまっせーーーーん」とか「さようなっらーーーーー」とか「おねがいしまーーーーーす」とか言うんだろうかな。
「おねがいしまーーーーーす」だけならばこんなにも悩まずに済んだ。「神様、お願いします」という意味でほぼ通るからだ。
問題は「よろしく」がなににかけて、言ったのかだ。

「よろしく」の対象が「なつきへのプロポーズ」とか「なつきの家族への挨拶」とか「死んだばあさんへの返答」とか出ていて大変面白いのだが、場面には合わない。

死ぬか生きるか、あるいはほぼ死ぬ、という場面にプロポーズとか他人の家族へ挨拶とか、そういう気持ちを込めるのは利己的すぎる。
小磯健二は利己的な人間ではなく、利他的に行動する。そして数学の才能を持っていながら、案外バクチを信じてみたりする情緒も持ち合わせているタイプだ。

そういう人間がおこがましくも人の命がかかっているときにプロポーズはしない。

私はやっぱり「神様」だと思う。ただ、中東や西洋的な神(God)の信仰としての神とは違う。彼らの神は願いはかなえない。救いをもたらすことはいつかあるかもしれないが、試練を与えるのが神の役目だからだ。

小磯健二が描くであろう「神様」というのは日本的な神様で間違いないはずだ。
どこにでも八百万の神が宿っていて、我々日本人は、心のどこかであらゆる物質や現象にさえ生命を感じている。
それは日本の長い歴史の中で養われてきたアニミズム(自然界のそれぞれのものに固有の霊が宿るという信仰。)が我々を支配しているからだ。
なにかしらの特殊な能力を持つものやこと全てが神様のような霊的な存在として考えられるように、先祖たちはDNAに刻んできたのだ。

「便所の神様」もいれば、家の部屋の隅にも「かどっこの神様」が宿っている気がするし、優れたミュージシャン、パソコンにだって、スマフォひとつひとつにだって神か疫病神か死神が宿っているとさえ考えるのも、あまり無理に感じない。東北大震災のときに「天罰」と言った右翼政治家もバリバリのアニミズムだ。

小磯健二もまた日本人らしく、どこかになにかの神様を信じて、「よろしく」とお願いしたんだろう。
ではどんな神様か。

まあ、「どれにしようかな、天の神様の言うとおり」というときのように、天のどこかにいる神様だったかもしれないが、それでは面白くないので、私なりに答えを出してみた。

Wikipediaから引用。

ジョン、ヨーコ: OZの守り主で、OZ世界底辺近くをゆっくりと周回する青と赤の2頭の巨大なクジラ。

このシーン直前に出てきている神様と言えば「OZの守り主」である二匹のクジラ、ジョン、ヨーコだろう。吉祥のレアアイテムを与えてくれたときに、みんな手を合わせて「ありがたや~」と言われるクジラのことだ。覚えているだろうか。

私は飛躍して、このクジラに対して「よろしくお願いしまーーーーーす」と言ったのだと思っている。あるいはクジラを通して、奇跡を何度か既に与えてくれたどこかの神様にお願いしているのだ。

クジラは名前からして平和と愛の象徴である。世界中の人々が、なつきにアバターを渡すところなんか「power to the peaple」を髣髴させる。ちなみに「power to the peaple」も「人々に力を」という意味だとすれば「誰に力を求めているのか」という疑問も浮かばなかっただろうか。
もちろん神様あるいは強い力をもつなにかに願っているのだろう。しかしジョンはオノ・ヨーコから日本のアニミズムを受けていただろうから、もっと日本的な神に力を求めていたのかもしれないなどと考え出したらより親しみやすい曲に思えてきたりした。

とにかく神様に言ったのは確かなんだが、それじゃあって思ってこじつけただけなんだけれどね。

君ならどう思う?
もしくは細田監督だったら答えを教えてくれるんじゃないかな。
細田監督にとってジョンは神様であることは間違いないだろう。
監督、コメントください。

追記:サマーウォーズで検索かけてたら見つけたホットなページがあったのでメモ。
サマーウォーズ:曜日の求め方とか2056桁の暗号とかの解説
このブログの著者は大変頭脳明晰で、サマーウォーズに出てきた暗号解読に難点があると科学的に指摘した。それに対して賞賛するものもフィクションであるとして批判するものもいたりとコメントの行き来が激しく盛り上がった。
考証に関しては自由だし、どんな捉え方をしようが問題はないので、この著者の意見を批判することは行きすぎだろう。
コメントの中にはラブマシーンのゲーム好きという部分を取り上げて解説していた「Love Machine 2010/09/29 16:49」の推理はうまいと思う。
私見としては、あの暗号自体は大して難しいものではないものにして出題をゲーム好きなラブマシーンがした、という意見に賛成だ。
小磯健二は数学オリンピックの日本代表候補にも選ばれるくらいだから、スピードだけは速いはず。難易度が下げられて、スピードが速い小磯健二が解くには丁度いい問題だった、というのが解釈としてはバランスがいい気がする。
2048桁と2056桁の違いは私にはわからないが、細田監督が「あり得ないものにして」科学考証を逃げた可能性もあるかもしれない、とも過ぎった。数学関係者に問い合わせて「桁数変えれば、フィクションだと解ってくれるんじゃないですか」「それいいですね」と頂いたような運びとかで。こんなものあくまで推理です。
でも、いろんな見方があって、それが物議を醸して、って、映画って、ほっんとに、いいものですね。

骨の袋 スティーブン・キング 映画解説と感想文

骨の袋

テレビシリーズの前編後編で放映されたそうだが、それにしては手の込んだ作品だ。いろいろなレビューを見るとけっこう言われちまっているが、まあそういうのは教養にして、私なりに受けた感想でも書いていこうと思う。

まず私自身の悲劇だったのは、後編から見てしまったことだった。テレビシリーズだから後編であってもオープニングがしっかりあったので、何の気なしに見続けてしまったのだ。そしてラストまでみてしまうと、さあて、スティーブン・キングはここからさらにハプニングをどう用意してくるのかな、などと、前編を見始めたのだった…。最初は辻褄が妙に噛み合わなくて、回想シーンなのかと思ってみていたが、徐々にまさか前編ではないか、と思った時にはまったく気づきもせずに後編を見通していた自分自身に驚愕した。アホとか言われたりするような類いであることは間違いない。だが、私の特技というか、曲がった性分というか、あんまりそういうてんこちゃんこな映画の見方をしても、気にしないところがある。

幼少の頃、ビデオもなかった時代、テレビで映画をやっていても、オヤジが野球をみていて延長戦になったりすると、二十分くらいはロスしたりすることはよくあった。それでも想像力を働かせて、文脈を作り上げて、ロストされた冒頭を脳内で勝手に補完することは難しくはなかった。
「マチネー」という映画が昔あって、そのなかで昼の映画館がタイトル通り出てくるのだが、映画を見ているというよりも、映画なんかは中途半端で、ロビーでポップコーンを頬張ったり、その空間を楽しみ暇を潰すシーンが盛り込まれていた記憶がある。それを見たときに、ああ俺の映画の見方ってこういう感じだなあ、というような印象を受けたのを思い出した。そもそもマチネーで上映されていたのは三文スリラーで、真剣に見る必要なんかはないのだろうけれども。

骨の袋にはそんないい加減にみていいようには作られてはいないのだけれども、結果的には重要なシーンは要所にしかない。飛ばしてみてもストーリーはつかめるようになっているといえるだろうか。アメリカのドラマが優れているのは、どこからみても楽しめるようになっているところだ。ドラマサスペンス「24」なんかは本当によくできている。セリフの中に、途中から見た人間にもわかるように解説が含まれている。それらを重複として嫌がる人も中にはいるだろうが、筋立てを見失わせないようにするには最良の方法であり、ストーリーの柱がぶれないようにする製作サイドの自己暗示でもあるだろう。この手法がなければただのマニア向けのドラマになってしまって、大成を勝ち取ることはなかったと思っている。
骨の袋にはそういう技巧はしっかりと組み込まれていて、私のようなトンマが後編からみてもすんなりと見れてしまうような配慮がなされているのだ…。(しかしまさか後編からみてしまう人のためにも配慮するか、と思う人がいるかもしれないが、テレビでやる以上は、視聴率のためにも必須のことだろう)

閑話休題、本編の話にしよう。ストーリーの構成から話せば、呪いが人々を悩ませ、巻き込まれた主人公が悪霊を沈めさせる、というだけのストーリーだ。ただここに込められたのは、悲しみ、という大きなテーマである。骨の袋をみてチープだなと思った人は多いかもしれない。実際に目新しいトリックもなく、どれもよく知れたスリラーの手法ばかりだ。ラップ現象なんてもう最近はいう人も少なくなったんじゃないだろうか。そんな古典的な現象が並べられている。しかしそんなことを批判する必要はない。もっと大事な主題があり、どちらかというと小説としてのテーマを残していて、それを軸として、スリラー好きの不特定多数にもメッセージが伝わればよいな、という意図が私には見受けられる。悲しみ、という厚みのあるテーマを、どうやって多くの人にみてもらうか、そのためのスリラーとこの骨の袋ではいえる。

ではどこが悲しみであり、小説的なのかということを軸に話してみたい。
悲しみというのはずばり消失のことだ。単に妻を亡くした夫の悲しみだ。もうひとつは無念に殺された母と子のもつ悲しみだ。そんなことがなんだというかもしれないが、こんな悲惨なことを挙げ連ねたドラマもあまり無い。あったとしても、妊娠中の妻が死ぬ、のと、レイプを子供に目撃されながら、その子供が窒息死させられ、自分も撲殺される、というようなことを組み合わせるようなことは、そうそうない。もしこの骨の袋をみても、そのあたりの悲惨さを、ただの作り物の中でのことだとして冷静に見ていられるようならば、どこかが麻痺していると思っていいだろう。感情を素直に注げば、なんていう悲劇だと思わざるを得ないはずだ。そんな悲劇をうまく噛み合わせているところがスティーブン・キングの妙技だろう。
子を待望した妻と胎児の死と、壮絶な強姦死と娘の溺死を味わった母親の並列。この悲しみと、愛を歪曲させてしまう男たちとの対比。それにスリラーを付け足したもの、と言えば分解しやすい。
これをただのスリラーにできる限りの悲惨さを付け足したもの、と読み違えてしまうと捉え方は大きく異なってしまう。はっきり言っておく。この物語は小説を読むときの構えで挑まなければ、理解できない。スティーブン・キングの作品にはエンターテイメントな要素が多いがあくまでもライターであることを意識していることが見受けられる。まず劇中のマイク(ピアース・ブロスナン)がライターであること。これがなんの意味を持つかといえば、優しさ、だと私は思う。おそらく主人公をたてるときに、スティーブン・キングは考えるんじゃないだろうか、結局、ひどい目に合わせる主人公は僕でいい、と。飛躍しすぎかもしれないが、それぐらいの愛がなければ小説なんてものは書けまい。また、劇中で自分を励ましながらなんとか筆を進めるシーンがある。あれはスティーブン・キング自身であり、スティーブン・キングが「自分のこと以外を書くことはできない」とでも悩んでいるかのような姿である。ここは分かりづらいので、もう少し噛み砕いてみよう。

劇中の主人公がライターであることは、スティーブン・キングが、自分を中心とした物語しか書けない、という現れだと思っていいだろう。ここで言う「書けない」というのは本当に書くことができないわけではくて、どんな物語でもフィクションでも、必ず作者が投影されてしまうことに気がついている、ということをまとめた私の表現としてとらえてほしい。「キャリー」は女の子だったし、「デッドゾーン」では学校の教師である。なんでも書けるが、やっぱり詰まるところ、作家であることを越えることは、できない、という小説家のジレンマ的な本質を相当に自覚してるはずだ。ピカソが絵のなかで「画家とモデル」をテーマにしたことと同義だとして差し支えないだろう。

小説というのは、小人の説、という意味だ。ある、ただの人の小言、と言ってもいいだろう。スティーブン・キングもあるただの小人のひとりであり、その個人的な小言をいっているにすぎない、としっかり自覚しているのである。と、私は勝手にとらえている。

ベストセラー作家で4位の主人公であるが、スティーブン・キングもベストセラー作家であることから、これを嫌みに捉えたりすることは必要ない。どんなベストセラー作家であっても悲しみや障害に出くわしてスランプに陥ることだってあるのだ、ということを表していて、自身はただの人である、ということが言いたいのだと思えばいい。そうすることによって、感情の移入がスムーズになり、悲しみというテーマがより捉えやすくなる。

つまり、小説家でありただの一人の人間というスティーブン・キングの自覚が物語全般の大きな柱になっている。
そして悲しみというテーマは、小説とスリラーをつなぐ大きな役割になっている。役割というと変だが、スリラーを物語として成立させるためには、テーマが必要で、スリラーがテーマになるわけではない。ここが大事なところで、スリラーをテーマにしただけの物語もあるかもしれないが、それは小説にはならないだろう代物であって、およそスティーブン・キングが求めるようなものではない。よってこのドラマをスリラーのうんぬんで評価してしまうとそりゃあチープなものになってしまうのは必至だ。「デッドゾーン」の何話目かはわからないが、主人公が、あるSFライター志望の少年がなかなかコンクールで選ばれなくて悩んでいるのを透視したときに、「続けていればいつかきっと成功する」と助言した。これはスティーブン・キングの優しさと、自分自身へのエールでもある。小説にはこの優しさという愛が必要である。また、この優しさは、他人の悲しみや怒りを受け止め考え続けなければならない力のことだ。その作業は考えているよりも大変な作業であって、おそらく一番スティーブン・キングを悩ませ疲労させていることなのだろう。スティーブン・キングはスリラーの大御所となってしまっているが、真に描いているのは「人の心」である。そしてその対象というのは常に弱いものであって、彼らの立場に身を置いて、物語を書いているのだ。

ピアース・ブロスナン

主人公を演じているピアース・ブロスナンは、渋い二枚目の五代目ジェームズ・ボンドであるが、この骨の袋の役にもしっくりきている。女たらしで知性的なモテ男が設定されているこの主人公に、他の誰があてはまるのか候補をお持ちであれば教えてもらいたい。
個人的にジェームズ・ボンドも、彼が一番しっくりきていると思う。ショーン・コネリーとかロジャー・ムーアはコミカルすぎたりやせぎす過ぎたりなんかピンクパンサーのアニメに出てくるような風体でなんかカッコ悪い。ダニエル・クレイグなんかは敵役の方が活きると思う。ところがピアース・ブロスナンは、この年寄りの私からイメージするジェームズ・ボンドにピッタリの配役だったと思っている。スーツの着こなし、ドライビングスタイル、胸板の厚み、どれをとっても歴代のボンド役の中で一番光っている。
ボンドはさておき、ピアース・ブロスナンだからこそ、あの狂った富豪デヴォアに立ち向かう演技をこなしたし、囲う美人たちとも釣り合いがとれたのだ。まあ役者のことはどうでもいいか。しかし女たらしの作家である。美人な妻を亡くしたばかりで、若くまた美しい未亡人ともデキていて、さらに亡霊からも誘惑されるというんだから、嫌気がさす人もいるんじゃないだろうか。しかしいずれも主人公マイクからは手を出してはいないし、どちらかというと妻の亡霊があのダークスコアレークへとマイクを呼び寄せて仕組んだようなところがあることは忘れてはならない。そうしないとただのスケベが悪霊に罰を受けて、困ったところで悪霊を退治したと捉えかねないからだ。この物語で描写されていない霊界が実はバックヤードで忙しく想像を働かせてくれている仕掛けがある。妻からの応答があり、その直後にラップ現象がある。これはなんとなく妻と呪いをかけた亡霊との闘いか、話し合いの行き違いのようなものを表している。妻がベッドのしたで引きずり込まれていくのもそれに近い。まさかこれらを貞子とかのような意味なしホラーと見比べてしまったりしないように。一見チープなスリラーだが、意味がちゃんとある。若い未亡人が脳を吹き飛ばされて現れるのも、過去の祭りに入り込んでしまうのも、霊界では時空をこえて未来過去へ複雑にアクセスできる設定を作り上げている。これはフィクションを信じている作家にしか体験できないものであったりしたのかもしれない。
そうして考えてみると、他の呪いをかけられた男たちはどうやって娘の殺害にまで運ばれたのだろうか。想像でしかないが、悪霊の言うままに殺害へと誘われたんじゃないだろうか。マイクの場合、妻の助けと作家である想像力で解決まで辿り着けたのだろう。妻からのメッセージを解読するには、相当な読解力と好奇心が必要だ。読解力も好奇心も誰の助けもない人間は悪霊に簡単に取り込まれてしまったのだろう。
確証はないが、妻は未来を半分知っていたのだということも挙げておく。霊界ではたぶん未亡人が死んでしまう運命であることもわかっていたし、悪霊を成仏させなければ、子供を助けることもできないこともわかっていたのじゃないだろうか。それを知っていての妻のアクションであらなければ、辻褄が合わないところがある。未亡人はたぶん、妻がとりついていたかもしれない、というのは飛躍しすぎだが、妻には親を失う子供を助けるように夫を促し、生まれなかった子供の代わりに、救った子供を夫に与えるという意図があったかもしれない。あくまでも推測だが、これくらい妄想しなければスティーブン・キングは楽しめない。
他にぶっとんだ妄想があればどんどん教えてほしい。

強姦され撲殺される歌手

歌手テッドウェルは悲惨な死を遂げたが、果たして被害者なのだろうか。殺された時点では完全な被害者だが、亡霊となってから呪いを施行してからは加害者である。たとえどんな仕打ちを受けたにせよ、幼い子供を溺死させるような考えは持ってはいけない。中にはこの歌手の立場を被害者として受け止め、悪霊に仕立て挙げられていると考える人もいるかもしれない。しかし呪いなら強姦に関わった男たち本人にかければよかった。子供を殺させちゃ、あなたも同じでしょ。あるいはもっと重罪でしょ。と私は考えるがどうだろうか。

しかし呪いというものはそんな風に理不尽であってかまわない。呪いはただの個人的な恨みであり、その定義などはない。自由に怨んで呪っていいのだ。人の心とは時に理不尽で不条理で狂気にまみれている。それらが暴れだしたときに良心が働いて沈めてくれる。良心がうまく働いてくれればだが、怒りと悲しみに満ちてしまった歌手にはもはや良心などは持ち得なかったのかもしれない。

悪霊と化した歌手とその子供の遺体を掘り起こし、薬品で溶かすシーンがある。土葬の習慣があるからか、焼こうとは考えないのだろうか。「スーパーナチュラル」ではよく遺体を焼いて成仏させていた。ちょっと込み入った怪奇ものでないと、火葬が取り扱われないのかもしれない。記憶のなかではけっこう焼いたりしてるようなきがするのだが、「フライトナイト」のヴァンパイアも焼かれてた記憶があるが、たしか日光で浄化されてたよな、と火葬のある映画を思い出そうとしてもあるようでなかなか出てこなかった。この土葬文化が産み出したのがゾンビであって、日本の場合、骨壺に骨として埋葬される文化からでは到達しづらい発想だったように思える。火葬が当たり前の日本では、もしかすると死後の呪いが横行していて、慣例として焼くようになったりしたんだろうか、などと想像を馳せてみた。そうだとすると、西洋では呪いが未だ浄化されずにフラフラとしているのかもなあ、とさらに妄想を独り歩きさせてしまった。

気になるのは、ダークスコアレークが舞台であるのに、湖の登場が異様に少ない。もう少し湖にミステリアスな部分があってもよかった気がする。

骨の袋というタイトルは、マイクが言っているようにトマス・ハーディの引用からきている。

Compared to the dullest human being actually walking about on the face of the earth and casting his shadow there, the most brilliantly drawn character in a novel is but a bag of bones.

地の表面を歩くだけのダレている人間たちやそこに落とす彼らの影なんかと比べても、小説中でうまく描かれた登場人物なんかはただの骨の袋だ。(個人的な訳)

とでも訳せばいいだろうか。作られた架空の人物よりも生身の人間の方が魅力的だといっているわけだな。このストーリーの中ではさらに、意味を転じて、生きている以上は自分の方が、悪霊よりもましで、実体のない悪霊というものはただの骨の袋なんだ、ということにもなる。つまり実体のない架空の小説の登場人物と掛けているのだ。これはスティーブン・キングがスリラーの大衆作家と言われていても小説を意識していることを表していると言える。
もう一度トマス・ハーディの言葉に戻ってみよう。骨の袋とはなんだろう。想像は一度、文字通り、骨を入れる袋から考えてみる。かつて、ハーディがいた時代のイングランドでは骨を袋に入れる習慣があったりしたのだろうか。調べてみても簡単には出てこない。やはり比喩なんだろうか。ならばこうか。骨は死んだ人を指すこともできる。あるいは心ももたないただのカルシウムとも言える。袋とは言葉で脚色した登場人物の表面のことだろうか。肉付けされているようで、中身がないというかな。
ハーディの言葉を理解しようとするとある程度想像が働くはずである。骨の袋ってなんだ?とスティーブン・キングは彼なりの新鮮な読解力をもって考えていったんじゃないだろうか。そうすると彼の専門であるスリラーに出てくる悪霊も、小説で扱う登場人物たちも、みな、骨の袋のようだ、と気がついたのではないだろうか。実際はわからない。だが私はこうして妄想を働かせていくのが好きだし、妄想にはなにも得るものがないというわけでもない。もし私の妄想を仮説として話を進めていくと、さらに複雑になっていく。

主人公マイケル・ヌーナン、彼もまた物語の主人公であって、物語の中で作家として小説を書いている。そしてハーディの引用をし、登場人物なんて骨の袋だという。観客にとって、いやもとい、生身の人間にとっては、骨の袋に出てくる人びとや悪霊も含めたすべてのキャラクターが「骨の袋」になるのだ。
骨の袋。それは脳も心もないただのカルシウムでできたガラクタなのかもしれない。それをどんな飾られた袋に入れたところで、魂が宿るわけではない。まだ私の方がましだというわけだ、たとえマスターベーションしか繰り返さないサルに近い人間だとしても。

MacGruver 映画解説 R35指定

映画MacGruver「マックグルーバー」はR35指定と勝手にさせてもらいました。

どうしようもない映画「マックグルーバー」はあの有名な「冒険野郎マクガイバー」のパロディだと気がつける人のみ、見て楽しい映画でしょう。
ということで、マクガイバーをまともに見ていた人限定となりますので、35歳くらいの方がウケる、ギリな内容になっていますね。

マクガイバーを知らない世代で、この映画をみても、どうして銃を使わないのか、なんていう疑問とかが、ストレスになりそうなパロディなんです。一応、マクガイバーを説明させてもらうと、身近なものをなんでも武器にしてしまう冒険野郎のことで、凶悪犯にも銃火器なしの丸腰でも対等、いや大きく上回って戦い勝利を収めることのできるサバイバル達人、地上最強の男と言えばおわかりになるでしょうか。

マスターキートンという秀逸な漫画がありました。浦沢直樹、勝鹿北星、長崎尚志の傑作ですね。これは確実に「冒険野郎マクガイバー」のオマージュで、キートンもまた手身近なものを使って戦闘するシーンが魅力的な作品になっています。マクガイバー対マスターキートンが実現したらどうなるのかは、わかりません。マスターキートンはパイナップルアーミーも下地になっているわけですが、パイナップルアーミーもまた、マクガイバーなしでは表出しなかったキャラクターではないでしょうかね。
マクガイバーはとにかく最強の男として数えられていいでしょう。シュワルツネッガーのコマンドーやプレデター、スタローンのコブラやランボー、なにと比べても、おそらくマクガイバーが勝つでしょう。

マクグルーバーはそんなマクガイバーへの敬意を表した作品であるともいえるのですが、かけはなれて最悪の男に仕上がっています。
最強の仲間を集めた末に、自作のC4爆弾75キロで全員を失います。そして卑猥さ、愚弄の連発。これは紳士であり最強の戦士であるマクガイバーとの対比でなければ成り立たないものがあるわけです。

そこまでの敬意がありながらも、物足りなさが感じられたのは、マクガイバー特有のナレーションがなかったことでしょうか。マクガイバーは常に「私の祖父」と呼んでいるおじいちゃんがいて、おじいちゃんからあらゆる知識と生き延びる知恵をもらっていることを自慢げに語るナレーションが魅力さでもあるわけですが、どうしてかマクグルーバーには祖父が出てくるナレーションがなく、いまいち成りきれていない感が漂っています。

そっとウケるポイントは、ヴァルキルマー演じるカンツの名前にあって、カンツっていうのはおそらく”マンコの複数系”を意識したものだとおもわれるところでしょうか。カントというのは英語圏では女性性器の具体的な表現で、女の人の前で言うと、かなり手厳しい反応が返ってくるような言葉です。注意しましょう。
※私はかつて哲学者のカントの話をマジメにしようとしたとき、何人かの女の子が笑って取り合ってくれなかったことがあったわけですが、私がマンコと連発していたのがおかしかったのでしょう。

まずはマクガイバーを見てから、この映画に渡来する、か、この映画を知ってしまったら、マクガイバーを一気に見直す、そして、マスターキートンを読み返す、というのが正しい付き合い方だと、私はおもっています。
とくに語る必要のない映画、っつうわけでもあります。

映画解説 クロニクル

映画『クロニクル』は、おそらく日本漫画の実写化に初めて成功したと言える作品だろう。日本のアニメにおけるスペクタクル(視覚的に強烈な印象という意味で)を再現することができている、という意味でだ。

クロニクルは、公表されている通り漫画「アキラ」から影響を受けている。うだつの上がらない主人公(アキラではテツオに当たる)が、超能力を得て、暴走し、親友と対決する。途中死んでしまうスティーヴはアキラで言うところの山形か。検査衣で戦うシーンなんかままパクりだが、そんなことはどうでもいい。重要なのは、この映画で描かれている戦闘シーンや超能力の表現力だ。少年たちが空を飛ぶシーンなんかはドラゴンボールを思わせるところがある。またビデオカメラを浮遊させて自撮りするシーンなんかもアキラでのアキラが石ころを宙に浮かせているシーンに重なる。戦闘シーンはキン肉マンやセイントセイヤ、ドラゴンボールなどで育まれた超人的な破壊力を見ることが出きる。

こういった表現がアメリカには無かったのかというとそうではなく、かつては日本に輸入されていたアクションへの感覚が、日本の八十年代辺りから変化を遂げ、独自のものに進化していった、と私は考えている。

アクション表現の古くはスーパーマンや、殴られたネズミやなんかが壁に当たると、大の字の穴が開くというようなレベルから、アニメでしかできないとされてきたような表現はあった。
しかしアラレちゃんで破壊力の上限はなくなり、ドラゴンボールでは宇宙戦争にまで発展した。アキラでは宇宙がもうひとつ出来上がった。80年代でアニメはスケールを増したと思う。

こうしてみると鳥山明の持ち味には破壊力が付きまとうのかもしれないよね。私の個人的な好みでいけば、日向小次郎のタイガーショットこそ最強だと思っている!

力の表現

力の表現でいけば、特にドラゴンボールとアキラは群を抜いて進化した。カメハメ波は画期的だった。気合いという不可視なものが可視化された。そして可視化された気合いの玉で、攻撃することが出きるのだ。また元気玉は地球上のチリのようなエネルギーを集めて可視化した。
漫画やアニメでは力そのものを可視化するためにいろいろな工夫をしてきた歴史がある。赤塚不二夫の漫画でよく見かけられた足が何個も残像になって描かれる。ジャコモ・バッラなんかを引き合いに出すのは古くさいかもしれないが、赤塚不二夫の何十年も前からそれを試した未来派の画家はいた。平面芸術ではあらゆる手段を使って力やスピードを表現してきたのだ。映画ではもはや、そんな工夫よりもリアリティのある描写で力を表現できるようになった。CGの技術はもはや犯罪級だ。だが、高いレベルの技術力をもってしても、スペクタクルへの概念が成熟していないと、つい、いつまでたってもディズニーアニメの基本動作の繰り返しになりがちになる。

スピードや力をどうやって表現するか。その追求は常にアップデートされていなければならないことなのだ。なぜなら時代自体が加速をしているからだ。

ロビン・ウィリアムス氏 死去

ロビン・ウィリアムス氏が2014年8月11日、カリフォルニア州 北部ティブロン(Tiburon)の自宅にて遺体で見つかった。63歳だった。

自殺と見られていて、関係者によると、ここ数か月鬱状態にあったという。アル中専門のリハビリセンターに入院したこともあったという。

保安官事務所検視局は声明で、現時点で死因は「窒息による自殺」だとみていると発表した。

『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち(Good Will Hunting)』(1997)で米アカデミー賞(Academy Awards)助演男優賞を受賞。マット・デーモンとのマッチングが最高だった。

『いまを生きる(Dead Poets Society)』(1989)は多くの人の心に残っている作品だろう。私はこれを見てシェークスピアを知ったし、机は上に上るものだということも知った。「死せる詩人の会」のような仲間を集めようと思ったが、乗ってくれるような人はいなかった。先生と呼ばせず、キャプテンと呼ばせたロビン・ウィリアムスは、私生活でもそういう人なのではないかとずっと思ってきた。

『ファイナルカット』はロビン・ウィリアムス主演のなかでは一番好きな作品である。これはまた別の機会に語るとして、ここでは少しだけ触れておきたい。
『ファイナルカット』の主人公アランは少年時代の記憶に苛まされ続けていた。あることからその記憶を確かめることができるチャンスを得る。そのお陰で救われるが、命を狙われ、エンドへと続く。このときのロビン・ウィリアムスは、二度とコメディはできないような顔をしていた。たぶん、彼の本当のところは、こんな孤独な世界なのかもしれない。しかし、主人公アランはこんなこともいう。『死んでもやる』。
ロビン・ウィリアムスには死んでもやらなければならないことがあったのだろうか。

初期のパーキンソン氏病で苦しんでいたとも夫人がコメントしたそうだ。

アナと雪の女王 - Frozen - 映画解説と考察

この映画不況な時世にハイスコアを叩き出したアナと雪の女王。思わず観てしまったので感想をしたためてみようと思う。

アレンデール王国の王女・エルサは、凍らせたり雪や氷を作る魔法の力を持っている。カメハメ波みたいに雪を飛ばしたりできるんだな。私のビールも冷やしてほしいもんだ。

八歳になるエルサは、ある夜、妹のアナに誘われて夜中の火遊びならぬ氷遊びをしていた。はしゃぎまくるアナが足を滑らせ、エルサは助けようと魔法で作った雪を発射するが、アナの頭に誤爆。アナは一気に意識不明の昏睡状態。

二人の両親であるアレンデール国王とその妃は、昏睡状態に陥ったままのアナを助けるため、トロールたちの所に行く。トロールは、ここでは石の妖精で、背が低くゴロゴロしている。トロールってこんなんだったっけ?
そこにみなしごのクリストフが遭遇する。

不幸中の幸いで、アナはトロールの族長かなんかがかます魔法で回復した。だが二人で遊んだりした楽しい思い出以外の記憶、つまり魔法に関する記憶は残せなかった。
こういう交換条件はディズニーに限らず、おとぎ話のいいところだと思う。
魔法を忘れさせる、ことで、ストーリーが複雑になるのだ。魔法を忘れたことで、エルサは魔法を使えない、話すことが出来ない、言ってはいけない、というしばりがエルサを苦しめていく。一方、アナはエルサと遊びたいだけなのに、近づけてもくれない理由がわからなく、アナもまた苦しめられる。この葛藤が物語を豊かにしているのは言うまでもないか。
さて、エルサはなぜ氷の魔法でなければならないか?心を閉ざす心境とラップさせるために脚本で組まれた舞台設定である。魔法が火でも石でもよいことはよいのだが、魔法のことを言えないエルサの心境は氷かな。原題のFrozenは邦題の「アナと雪の女王」とはかけ離れている。フローズン、なにが?と思う人もいるかもしれないから「アナと雪の女王」っていう分かりやすいやつにしとこうよ、という日本配給会社の手練手管な命名師かなんかにつけさせただけのものだろう。しかし原題の方が優れているのは、一語でエルサの心を表しているからだ。
フィッツ・ジェラルドの短編作品に氷の宮殿(野崎孝訳)という美しい物語がある。女が氷で出来たアミューズメントの宮殿の中で体験する場面がいいストーリーだが、これもまた女の心境を当てたタイトルになっている。
※氷の宮殿で思い出したが、緑茶という映画と氷の宮殿の双方に触れたことのある人の中で、何か感じた人はいなかっただろうか。余談すぎるからこんどしっかりと話してみよう。

年を負うごとに魔法の力が強くなっていくエルサは、かわいそうに引きこもり生活を強いられる。もし国王の娘でなかったら単なるニートだが、最近では引きこもりでも才能のある引きこもりに焦点を当てる試みがあるようだ。東大などが先導でやっているという。

アナは、なぜ姉が引きこもりになり、自分を避けるようになったのかすら、理由もわからない。はっきり言ってほっといてやったほうがいいのだが、幼いアナにはわかるわけがない。

その10年後、そのかわいそうな二人は旅行に出掛けた両親を、事故で亡くしてしまう。ひどい親だ。自分達だけで旅行なんかにいくもんだから、バチが当たったのだ、などとは思わない二人。健気な姉妹は涙を誘う。だが始まったばかり。まだ泣いてはいけない。

その3年後、エルサは成人し、女王へ即位する。13年間もの長い間、閉ざし続けていた城の門を、戴冠式の一日だけ開くことになる。
さあここから悪者たちが登場だ。
招かれていた他国の王子ハンスと一発で恋に落ちたアナは、二人で上機嫌に歌いまくり、結婚の約束までしてしまう。婚約を知ったエルサは、嫉妬のあまり、二人の結婚に猛反対する。嫉妬とは思わない学派もいるだろうが、エルサは一人取り残されてしまうのだ。嫉妬と言わずしてなんと言おうか。また、両親が死んでしまった振りがここで効いているのも注目だ。イタズラに殺したりはしないのだ。

エルサはアナと口論になる。まあ、兄弟喧嘩だな。猛烈にカンカンのエルサは思わず、公衆の面前で魔法を暴走させてしまう。
しまった!
エルサはそう思ったに違いない。
やばい!
自分の力を知られたエルサは、魔女扱いをされ、王国から逃げださなければならなくなる。西洋で魔女扱いされるというのは、魔女狩りで知られる差別色が濃い歴史があり、我々日本人には理解しがたいセンシティブな問題がある。作品中、魔女と言ったかどうかは覚えていないが、魔法を使う女であることから、恐れられる対象であろうことは想像できる。実際であれば張りつけにし、そのまま火炙りして殺す、とかの展開もあり得るだろう。

東のエデンのなにがすごいのか 解説と感想

アニメ「東のエデン」をそっくり見返す機会があった。
とことんウィスキーを飲みながら「東のエデン」を見続けるという課題を強いられて、結局なんやかや、楽しんでしまった。その感想を、例によってダラダラと書いていこう。

神山健冶監督の作品であり、テレビ連載ということで毎週を楽しみにして過ごした人も多いだろう。
見終わった後の私的な感想としては素晴らしいところも多いが「大変惜しい」というところも多かった。

まず、冒頭に滝沢が”全裸”で出てくる場面があり、とてもコミカルだ。だが、通して見てみるとこれがなんだったのかと不可解なものに見えてきてしまう。
結局、彼のキャラクターを印象づけることにしかストーリーに関与しなかった。ターミネーターのオマージュかどうかはわからないが、全裸で出てきた彼の登場に、物語のラストかはたまたどこかで「裸」に対する決着を何でもいいからつけてほしかった。ただのコメディリリーフにしては、登場にインパクトをつけすぎだ。あるいはそこを収拾してくれれば、すごくいい方に向かったんじゃないだろうか。警察に捕まりたかった、裸のニートたちと関連付けする、というだけでは、物語として不可解すぎる。
また、なぜ森見はコインをホワイトハウスに投げたのか、そのコイン投げの意味があるなら、ラストと絡んでほしかった。意味があったり、オマージュなんだとしても、ストーリーに関わらなければ無意味になってしまう。
※無知を承知ですみませんが、ホワイトハウスにコインを投げると、なんかいいこととかあるんですか?そういう風習とかあったら教えてください。コメントに書き込み可です。
http://digitalmaiden.blog81.fc2.com/blog-entry-139.html←このページで解説されているように、物語がアメリカから始まるのは日本が東であることからのようだ。コイン投げはリンカーンにまつわることからのようだ。だが、なんなのかは判然としていない。

とはいえ、ニートたちが協力しあって世を救うという主眼はとても冴えている。
ニートというのは別に無能というわけではなく、単に仕事にありつけない人たちの呼び名であって、学生でもなく職業訓練もしていない人を指して使う言葉だ(Not in Education, Employment or Training, NEET)。そこから転じて引きこもりも社会不適合者もなんでもかんでもひっくるめられているのが今あるニートという単語の姿だ。「引きこもり」は「ニート」というよりも、対社会恐怖症とか高機能自閉症とかそういう位置付けだろう。本来の「ニート」なんて、昔で言えばモラトリアムとか、ルンペンとか言われたようなことと同じで、いつの時代にもある青春漂流な時期を過ごす青年たちのことだ。ニートなんて珍らしくもなんともない。あの空海(真言宗のお坊さんね。弘法大師ともいう)でさえ四国の山に10年引きこもった。

ついでに言わせてもらえば、「社会不適合者」は「オタク」と言われるようなジャンルと密接に関係する印象があるが、それは勝手な想像であって、実のところは関係ないか、もっと複雑で別物なはずだ。

印象ではあるが、たしかに漫画オタクの描く絵(同人誌とかね)の中には幼児性や幼児への回帰的なものが透けて見える。彼ら自身にある幼児レベルと同等もしくは低い異性とでなければ、恋愛や性を交わすことができないと信じているかのようだ。そんなもの見たことも聞いたこともない人はコミケ(コミックマーケット)の会場に行けばわかると思う。もし一人だけであんな幼児性の強いエロ漫画や幼児性の強い想像で恋愛を描いていたら、間違いなく異常に見えるだろう。だがああも人数が多いと、異常ではなく見えてくるのだ。だが会場を去ればまた彼らも一人になり、引きこもりへと帰っていく。たしかに引きこもると「ニート」な感じがするが、「ニート」はもっと多様で、もっと困っている。ニートのなにが悪い? と開き直ってみたりするやつもいるだろう。開き直りも含めて彼らニートたちなりに努力している。哀れだ。だがオタクは違い、引きこもるとしてもその現状を楽しんでいるようにも見える。そして彼らは不適合や引きこもり自体に困っていない。そこが大きく違う。

社会に出れなかろうが引きこもろうが幼児性があろうが、イコール「無能」ということではない。そりゃあ「無能」もわんさかいるだろうが中には「有能」もいる。その割合は一般社会とそれほど変わらないはずだ。
オタクはアニメや漫画だけではないし、分類はもう出来ないくらい広範囲に扱われているから、こんな話じゃ語れないのだけれど、とにかく一般的に扱われる「ニート」と「オタク」と「社会不適合者」とか、そんなものたちはひとくくりにされてしまっているようで、歯痒いものがあるのは私だけじゃないはずだ。 次のページへ→

傑作映画 ロストイントランスレーション 解説

人によって好きか嫌いかがきっぱりわかれ、かつ、その理由が明瞭、という感触が私にはある。嫌いという人は多かった。理由は「日本がバカにされている」ということだった。好きだという人は「旅先での出会い」に反応した感想がよく聞けた。とはいえ少ない意見だった記憶がある。たしかにめちゃくちゃな英語を話す老婆が出てきて、呆れ顔なビル・マーレイとか見るとバカにされている感じはある。またスカーレット・ヨハンソンが寺を見に行ったりすると陰鬱な気分になって滅入る、とかのくだりも日本をひいきにはしていない。これらに反応する人たちはとても敏感な感性をもっているんだと思う。だが、私は、それならば、と思う。それならば、彼らビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンが反応した日本にも見てほしいと思う。どちらかというと因習的な日本を嘲り、新しくそして若い日本を彼らが楽しんでいて、その土地で出会った人々と楽しんでいたことを見てほしいと思う。

もしあなたがアメリカ人で、この映画を観たとしたら、どう思うだろうかと、そんなことを考えたりしただろうか。私ならばなんて反米な映画なんだ、と思う。日本の若い連中はカラオケで乗りまくっているのに、ハリウッドのバカ女優はマイウェイかなんかを音痴に熱唱させている。アメリカに残してきている妻にはそっけないし。まるでアメリカ人たちは退屈な生き物にしか見えてこないこの映画、イエローモンキーなんぞと楽しそうにしやがって!などなど。
そう、監督のソフィア・コッポラの焦点はここにある。

たしかにバカにしているところはあるが、それは古臭いもう死にゆく日本の因習であって、若さや新しさやエキサイティングな日本に対してはとても行為的な描写が満載だ。活け花をするおばさんたちやお辞儀をしまくりながら名刺交換をする親父とか能無し丸出しの代理店プロデューサーとか。そういうものはじきに死んでいくものであって、人種に関わりなく笑ってよろしいことだ、と受け取れると私は思っている。それに対して若く新しい文化は人種や言葉を越えて通じ合えるものがある。古いものはもういい。死にゆくものにぶら下がるやつらももういらない。長幼の序とか古臭く何千年も前のことをへーきに言っていると、この映画を見ても理解できず、さらに笑われているのは自分だということもわからない。

ロストイントランスレーションというのは、訳されるときに失われるものを指しているのだが、ただの言語翻訳だけのことではない。「世代交代のときに漏れていくこと」と訳せば、別に言語ではなく、古いことから新しいものへ訳されていくときに失われていくこと、をも指しているのだ。電通とか博報堂のクリエイターとか自称してしまっている恥ずかしい因習に群がる人間は、失われていくものなのだと、映画はいっているのだ。名もない若い連中は新しさやスリルに溢れていて、飽きることなどない。翻訳されるときに失われず残っていくものの方のはずなのだ。だが今のところ、どうしてか溢れていってしまうのはそういう若さや新しさの方だったりする。因習の力というのは強烈な悪臭と一緒にまたでかいものなのだ。

映画のなかに戻るが、ビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンの二人にとって、日本は美しい国になったことは確実である。出会いというものは最強の旨味であって、どんなにひどいスープでもたちまち最高級に仕立てあげてしまう。二人にとって出会えれば砂漠でもジャングルでもよかったかもしれない。あるいはクアラルンプールでもサンパウロでもよかったかもしれない。もしいい出会いができれば、およそその場所こそが美しい思い出の舞台になるものなのだ。いや、もしかすると二人にとってというか二人の出会いにとって東京という舞台は必要だったかもしれない。しかし、それはどうでもいい結果論だ。

二人にとって日本は、各々いいことも悪いこともあったけど、出会えたことでまた来たい、帰りたくない、そういう土地に変化してしまったわけだ。最初ははやく帰りたかったが、もう少しいたくなったのは、日本なんてつまらない国だと共感した二人だったはずなのに、いつのまにか、ずっとでもいたい国になってしまった。この感覚は誰にでも覚えがあるのではなかろうか。例えば初デートした場所とか、いまでも忘れられない人とよくいった場所とか、そんな個人的な気持ちから、単なるガードレールや電柱一本も思い出を彩る特別な舞台装置になっていることを体験しているはずだ。例えその場所が最低最悪の猛暑と飢餓の砂漠旅行だったとしても、それは構わないのだ。

ところで、最後に二人が交わす内緒話の内容だが、誰か知っている人はいないだろうか。いや、知らない方がいい想像ができるとも言える。あれはなんだったろうかな。コメントにでもあなたの想像を書かれたし。

ゼロ・グラビティー 意味 映画解説

ゼロ・グラビティ。
無重力という意味だ。これは邦題であって、グラビティというだけのシンプルなタイトルが原題である。

原題は「重力」というだけのタイトルに対して邦題の「無重力」としたのはなぜなんだろうか。ここには重大な違いがある。決して間違っているということで言っているのではなく、真になぜなんだろうか、と疑問が沸いてくる違いがある。その考察は最後に回して、先にこの味わい深いストーリーを分解して行ってみよう。

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